雑記

ここんとこ元気そうな日本映画に関して僕が感じているモヤモヤと希望と。雑記。内容はぐちゃぐちゃの可能性あり。

ここのところ日本映画が元気そうである。この夏に公開された映画も、これから公開される映画も、なかなか個性的で、現代的で、これからの日本映画の可能性を感じさせる作品が続く。しかしながらその一方で、これらのヒットが続く現状にはどこかビミョーな違和感を感じざるを得ない。

数年前の日本映画に感じていた違和感に近い。超個人的な意見であるが、私は数年前の日本映画のラインナップにはまったく魅力を感じなかった。それはなぜかというと、それらの作品から、作品の質を伴わない“プロデュース”先行の作品制作の匂いが感じられたからだ。

名作映画に纏わる様々な事象—その映画がもたらす社会現象であるとか、“文学的な香り”と言われるものであったりとか、すでに名作として存在しているゆえの存在感—そういった「作品の受け取り方」みたいなものをスーッとトレースして、映画という商品をパッケージしている感覚。”映画の受け取られ方”というものを先行して、映画を製作している感覚。

日本人は、もう自分で作品に対してものを考える、という事が出来ない。ならば、「この作品はこう受け取られているんですよ」あるいは「こう受け取るべきなんですよ」というものを御膳たてする必要があるのかもしれない。悲しいけれど、そうすることで初めてその作品の価値を受け入れることが出来るようになっている。

とはいえ、このプロデュース法はとても受ける。でもこういった理念で製作していくと、映画業界における作家性というのはどんどん失われていく危険性がある。そうなるかどうかは、プロデューサーが映画の質やクリエイターの作家性をきちんと評価し続けられるかに掛かっているのだが、それ以上に、クリエイターたちが、商業主義に堕することなく芯を持って作品を作り続けられるかが重要である。プロデューサーとの軋轢を避けては通れない。

以前であれば、こういった現象は「わざわざ書きのこすまでもないただの愚行だな」と思う程度だったのだけど、近頃こういったプロデュース作品が増え、ヒットも確実に積み重ねられている状況を鑑みるに、問題はそこまで単純ではないと思える。

正直に言えば、このミクスチャー的な映画製作、というものは、ポストモダン的というか、タランティーノの映画みたいなもので、それ自体は決してつまらないものではない。実際のところ、最近の日本映画も表層だけみると、新しい日本の青春映画としての個性は十分ある。問題は二つ。一つはこういったミクスチャー的なクリエイションが主流になってしまっていること。もう一つは、物語の中身が伴っていないというところ。100パーセント、物語が魅力的かというとそうではない。

この問題を解決するのはプロデューサーではなく、クリエイターである。前述のような新しい日本映画は、どんどん作られてしかるべきだ。JAPAN FILM FESTIVALのラインナップが本当に残念だった数年前と比べると、劇的な進歩だと思う。ただ、それを実際に見たときに、世界に通用する内容になっているか、と問われると答えに詰まる。プロデューサーはうまく場を作っている。あとは作家が、その新しい場で戦えるだけの粘り強い作品を作り続けなくてはならない。