ひょんひょろ

大ウサギにとってヒョンヒョロはとてつもない価値のあるものだから、仮に「返して」といったところで無意味であると大ウサギは考える。圧倒的な科学力を行使して取り返すのは、無礼である。だから大ウサギなりに人間世界を観察して、”誘拐”という方法を発見し、それを使うことに決めた。 この部分が個人的には深いと思う。つまり、異なる文化が交わる際に、自分としては最大限の敬意を払い、礼節を尽くしているつもりではいても、その受け手側にしたら違和感や不満を感じずにはいられない。実際のところ、ウサギがもっと人間世界を観察していれば誘拐よりいい方法も見つかったに違いない。しかし、そんな時間も興味も元々とない、というのがウサギの(決して口に出すことのない)本音だ。彼は彼なりに努力したのだ。ただ熟慮の末行動したところで、真意が伝わるとは限らない。大ウサギの落ち度は、「隠れた努力」に対する理解の欠如からくるコミュニケーションの行き違いに対してフラストレーションを感じてしまった点だろう。まぁ、そんなもんだろう、とも思う。

雑記

ここんとこ元気そうな日本映画に関して僕が感じているモヤモヤと希望と。雑記。内容はぐちゃぐちゃの可能性あり。

ここのところ日本映画が元気そうである。この夏に公開された映画も、これから公開される映画も、なかなか個性的で、現代的で、これからの日本映画の可能性を感じさせる作品が続く。しかしながらその一方で、これらのヒットが続く現状にはどこかビミョーな違和感を感じざるを得ない。

数年前の日本映画に感じていた違和感に近い。超個人的な意見であるが、私は数年前の日本映画のラインナップにはまったく魅力を感じなかった。それはなぜかというと、それらの作品から、作品の質を伴わない“プロデュース”先行の作品制作の匂いが感じられたからだ。

名作映画に纏わる様々な事象—その映画がもたらす社会現象であるとか、“文学的な香り”と言われるものであったりとか、すでに名作として存在しているゆえの存在感—そういった「作品の受け取り方」みたいなものをスーッとトレースして、映画という商品をパッケージしている感覚。”映画の受け取られ方”というものを先行して、映画を製作している感覚。

日本人は、もう自分で作品に対してものを考える、という事が出来ない。ならば、「この作品はこう受け取られているんですよ」あるいは「こう受け取るべきなんですよ」というものを御膳たてする必要があるのかもしれない。悲しいけれど、そうすることで初めてその作品の価値を受け入れることが出来るようになっている。

とはいえ、このプロデュース法はとても受ける。でもこういった理念で製作していくと、映画業界における作家性というのはどんどん失われていく危険性がある。そうなるかどうかは、プロデューサーが映画の質やクリエイターの作家性をきちんと評価し続けられるかに掛かっているのだが、それ以上に、クリエイターたちが、商業主義に堕することなく芯を持って作品を作り続けられるかが重要である。プロデューサーとの軋轢を避けては通れない。

以前であれば、こういった現象は「わざわざ書きのこすまでもないただの愚行だな」と思う程度だったのだけど、近頃こういったプロデュース作品が増え、ヒットも確実に積み重ねられている状況を鑑みるに、問題はそこまで単純ではないと思える。

正直に言えば、このミクスチャー的な映画製作、というものは、ポストモダン的というか、タランティーノの映画みたいなもので、それ自体は決してつまらないものではない。実際のところ、最近の日本映画も表層だけみると、新しい日本の青春映画としての個性は十分ある。問題は二つ。一つはこういったミクスチャー的なクリエイションが主流になってしまっていること。もう一つは、物語の中身が伴っていないというところ。100パーセント、物語が魅力的かというとそうではない。

この問題を解決するのはプロデューサーではなく、クリエイターである。前述のような新しい日本映画は、どんどん作られてしかるべきだ。JAPAN FILM FESTIVALのラインナップが本当に残念だった数年前と比べると、劇的な進歩だと思う。ただ、それを実際に見たときに、世界に通用する内容になっているか、と問われると答えに詰まる。プロデューサーはうまく場を作っている。あとは作家が、その新しい場で戦えるだけの粘り強い作品を作り続けなくてはならない。

Directing Technique撮影

まであと二週間強で役者一人とロケーション一つが決まっていない。とはいえ一ロケーションなのでそこまで心悩まさずとも良いのだが、まぁプロデュースとディレクティングを兼ねるのはいつでもややこしい。
ここのところ長い間自分が監督としてセットに立っていなかったので今回は久々となる。良い作品を作るのは言うまでも無く、それ以前に現場にいい雰囲気をもたらすのも目標の一つ。ただ実はこれが難しくて。というのは、自分の現場はなぜかいつも静かになってしまいがちなのだ。勿論全員が働いていれば静かになって当たり前なんだけど、もっと自由に話してくれればいいのにといつも思う。今回はその目標を達成する為に音楽の力をかりようと思うのだが、ただ問題は、撮影が始まったときに起こる静けさをどう打破するかで、まさかカットごとに音楽鳴らす訳にもいかないから困ったもんだ。わいわい喋るキャラ一人ぐらい入れた方が良いんだろうか。

osaka elegy

溝口は悲劇を描いて何を物語ったのか?

  • 良き心をもった女性が、絶望に打ちひしがれ、現世を憎むようになる。世間的に蔑視の対象であった女性の視点で物語を語る事で、汚れは社会に存在するのである、という強い社会批判をテーマとした作品である。
  • 映画が、独立した視点を持ち、ある社会的立場の人間からみた主観的な世界を表現しうるメディアに変遷してきたからこそ生まれた作風であると言える。ロシアでは社会主義のプロパガンダとして一部の大衆を鼓舞するのに使われた映画が、日本では妾/女性という社会的な弱者を代弁するメディアとして存在したのである。
  • 社会的なメッセージを持つ作品でありながら、溝口はロシアのそれと全く正反対のアプローチで映画製作をしている。ロシアでモンタージュが盛んに使われたのに対し、溝口は、長回しや固定カメラ等の静かな演出で作品を作り上げた。これは溝口の徹底したリアリズムを達成するための演出である。このリアリズムに対する徹底した姿勢は黒沢にも受け継がれて行く。

怪奇ゾーン

三週間前に掲げていた目標の現状

  • 一応やったやつ
    • ミュージカルのボード作り
    • 長編映画のピッチの練習
    • アクションシーンのボードの訓練
  • やれてないけどやりはじめたやつ
    • ファンタジー、コメディ等のジャンル
  • まだやれてないやつ
    • 小説/falk taleのボード作り

意外とこなしていて少し驚き。
ところで最近はグラビティ・フォールズが面白い。まだpilotと、episode5,6を観ただけだけど、脚本のディテールが細かいしユーモアも割と洗練されている。単純なキャラクターなのに表情豊かで可愛らしい。ティーンさしかかりの子供特有の、新しい世界を発見していく感性もある。所々子供向け番組故の強引さはご愛嬌だが、久々にヒットの予感のするカートゥーンです。

ミュージカルボード

PhantomのYou are my ownでボード作りをしていたのだが、予想以上に難しい!舞台では銀橋上で二人が向かい合って歌うだけで様になるが、アニメーションはそうはいかない。逆に、舞台の場合役者はずっと歌ってなくてはいけないが、アニメーションはその必要性は無い(幕ウラで歌っているような感じ)。どの部分をキャラクターに歌わせ、どの部分をBGMにするかの判断。あと、ショットも普通の会話のシーンより多様性を持たせなくてはいけない。その多様性も、シーンの意図に沿ってなくてはいけない。ミュージカル向きの空間って何だろう。等等