2001年、宇宙の旅

2001年宇宙の旅三度目にして劇場での鑑賞は初。大画面もさることながら、その音響が家庭のテレビとは比べものにならない。映画は映画館で観ないといかんと改めて思う。
タルコフスキーが、ただの技術の展覧会と批判した2001年だけど、それを念頭において改めて観ると、確かにドラマが弱い気もする。HAL-9000のただ一度のミスが二人の船員を疑心暗鬼の種を撒く、という件は確かに若干説得力に欠ける。しかしかように単純かされたナラティブは、キューブリックならではの映画的ストーリーテリングのシンプルな構造美であると言って良いだろう。
ただ、その後の肝心のHAL9000と船員の攻防戦には、確かに安易で理不尽な部分も多々ある。木星調査を任されているほどの人間が、悪しきを切る事でチームの問題を解決しようと決断するだろうか?HAL9000は、船員を全員殺した後木星に何をしにいこうとしたのだろう。登場人物皆、せめて自分だけは生き残ろうとする身勝手な人間と機械だらけである。それを見せる事でキューブリックは何を問おうとしたのだろう。
これらを考慮した上で、2001年が未だに映画史に残る傑作として記憶されている理由を考えてみる。秀逸なデザインは言うまでもないが、他に哲学的、あるいは芸術的理由があるように思える。でも実のところは、そのストーリーに潜む三文小説的なエクスプロイテーションこそが観客の心をとらえているのではないだろうか。浮き世から隔離された場所で、頭茹だった連中が怒りに任せて仲間を殺める。チープで品も無いが、これがエンターテイメントの基本である事を2001年は改めて教えてくれた、ような気がする。