The Dark Knight Rises

歴史に残るトリロジー

バットマン・ビギンズ、ダークナイトに続く新生バットマンシリーズの最終章。作品に対する期待値はここ数年の映画界でダントツにトップであり、その状況下で続投、なおかつ期待を裏切らないクオリティで撮りきったノーランは、映画史に名を残す上で最も高いハードルを超えたと言って過言ではない。
まず、アクションの取り方が断然に巧くなっている。特にベインVSバットマンの肉弾戦は、重圧なサウンド・エフェクトも相まって、ノーランが提示してきたリアルなバットマン、すなわち、身体性を伴い肉体的苦痛に苛まれた存在としてのバットマン像の、到達点と言ってよい出来になっている。キャスティングも良い。今回特に目立っているのはキャットウーマンのアン・ハサウェイ。彼女は若干優等生的キャラクターなので、ミステリアスなキャットウーマンを演じるには何かが欠けている気がしなくもないが、なかなかどうして、彼女の非現実的な顔立ちがコミックの実写によくマッチしていており、作品のクオリティに大きく貢献していた。惜しむべきは彼女の最大の武器であるパイオツカイデーなウルトラボディがお目にかかれなかった点だろう。閑話休題。
誰もが期待したトリロジーの最終章としては満点。本来なら批判などする必要のない傑作と言える。しかし、本作がヒーロー映画の枠を超えた映画作品としてこの上ない出来かと問われればそれは否である。有り体にいってしまえば、ダークナイトの方が良い。なぜなら、今回のベインとダークナイトのジョーカーを比べると、ジョーカーの方が悪役として魅力的だったからである。

ベインは魅力的か

魅力的な悪役の条件とは何か。それは、大衆が否定できない悪、あるいは、大衆に潜在する非道徳性を、創造的かつ独創的な手段であぶり出すことのできる思想を持っていることである。例えば、オトナ帝国のケンとチャコがそうで、彼らはノスタルジーによってオトナを洗脳し、彼らの理想郷を築きあげた。そして、彼らは物理的破壊や暴力行為を全く伴わず、主人公の住む世界を破滅へと導いた。悪と対峙するヒーロー映画において、真に観客に善悪を問う作品を作るならば、ケンとチャコのような、倫理の落とし穴を突くキャラクターと主人公を対峙させる必要がある。ダークナイトに置けるジョーカーは、そういう点での鋭さが他の悪役と比べて群を抜いていた。彼は、倫理や論理性の枠では理解できない災難や運命の悲憤慷慨を見事に体現していた(とはいえ正直にいえば悪役としてジョーカーはケンチャコの足下にも及ばないと思う。まあそれはいい)。
ダークナイト・ライジングにおけるベインは、倫理の穴をついているか?突いていないと思う。だってそりゃあ、テロ行為で街を不当に占拠し、あまつさえ原子爆弾まで用意する連中なんて、処罰されて当たり前なわけで、そんな不逞な連中と向き合うバットマンの道徳的な葛藤なんて描ける訳が無い。

ベインをどう倒すか

ただ僕は、「敵がつまらん。よって駄作!」と言いたいのではない。どちらかといえば、「魅力的な敵役を作らないといけないクリストファー・ノーランは、大変だなあ」と同情する次第である。なぜ魅力的な敵役を作るのが難しいかと言えば、それは正義や悪を語るのが困難な時代だからだと思う。悪を象徴する人物の駆逐が平和に直結しない、と考えざるを得ない風潮もある。いや本当に、ノーラン兄弟の苦労は察するに余りある。
”テロとの戦い”と言える2000年代を経て作られた本シリーズが、テロをテーマに掲げるのは必然といえる。ベインというキャラクター造形の発端が、こういった時代を背景としているのは間違い無い。ところがここから先が問題で、対テロ戦争における首謀者殺害が、問題の本質的解決かどうかは未だに怪しいのだ。
例えば、本作のベインのようなテロ行為の首謀者に対する制裁として真っ先に思い出されるのが、ビン・ラディンの殺害である。あの一件での問題点は、被害者であるアメリカ自身が、第三者の仲介による国際裁判を通さず、敵対する組織の長を殺害してしまった、という点であった。つまり、あの制裁方法に、個人的な恨みによる報復という側面が含まれてしまっていたのではないか、という論点(この辺はNHK某番組の受け売りですが)。
この点を踏まえると、本作においてベイン退治にバットマンの私怨が関わっているのが気になるのである。あのせいで、バットマンの報復が、正義の行使なのか、個人的な復讐なのかよくわからなくなってしまったのだ。逆に言えば、個人的な恨みさえあれば、その相手に反撃するのはオッケーという風にも捉えかねない。…オッケーなのかな…?
あと、単純にベインを倒してゴッサムシティに平和が訪れるとも思えないし。アルカイダの例を挙げれば、数ヶ月ほど前アルカイダの二番手が殺害された時も、実際は彼が若いイスラム教徒の暴動を防いできたわけで、彼の死がより一層状況を混乱させるのではとの懸念にあふれていた。で、実際にテロ行為は続いている。ゴッサムシティにいる何千という元囚人達は、大将が敗北した瞬間に武器を捨てるような武士道精神を持ち合わせているのだろうか。
暴力否定したらヒーロー/アクション映画とれないじゃないか!というもう一人の自分の声が聞こえてくるのだけど、別に暴力や復讐のカタルシスを否定してるわけじゃない。キルビルは全然オッケーだし。要するにフィクションの中のリアリティの度合いの問題だと思う。僕にとって、クリストファーノーランの提示するリアリズムがいまひとつしっくり来なかった、というそれだけなのだと思う。