世界観

映画制作は、世界を構築するところから始まる。映画に限らず、芸術作品において、物語に意義を持たせ観客の心に訴えかけるためには、その世界にリアリティが必要である。ではリアリティとはどこから来るのか?リアリティを作り出す要因は様々だが、個人的には世界の面白さというのは、人間の生得的な感覚に由来するものが多いと考えている。そのいくつものファクターの一つが、境界であると考えている。
世界というのは基本的に境界がある。言い換えれば、我々は意識的あるいは無意識的に境界を設定する。映画というのは、空間的な境界を設定しやすい芸術メディアの一つである。”境界”が作品世界にリアリティを与える為には、作り手は観客に無意識のうちに世界の境界を認識させるのが望ましい。そして、映画の中のキャラクター達がその境界を越えたとき、観客は登場人物と同等の世界を生きている感覚を覚え、ある種生得的な満足感を得るのではないかと考えている。
映画における境界の重要性をを最初に感覚として覚えたのは、宮崎駿の千と千尋の神隠しを見た時である。千尋が、彼女の住まう建物から電車で海を越えるシーンには、単なる視覚的な喜びだけではなく、未知なるものへ向かう恐れと憧れ、自らの世界の境界を越える高揚感が描かれている。これは、我々の世界を他の世界と隔てる本質的な境界、すなわち死後の世界にたいして人間が抱く想像力に似ている。
境界は何もファンタジーに限った話だけではない。テオ・アンゲロプロスの「こうのとり、たちずさんで」では、主人公が国境の向こうで銃を構えるマケドニアの警備隊と対峙する印象的なシーンから物語が始まる。移民問題を扱ったこの作品では、国境というファクターが人間のドラマにもたらす影響を象徴的に描いている。
このような境界に身をおくドラマには、政治的な意味以上に、我々の生得的な感覚を呼び起こす瞬間がある。それらは、人間なら誰もがもつ未知なる存在、見知らぬ土地に対して感じる畏敬を思い起こさせるからだ。そのような普遍的な感覚が、その世界にリアリティを持たせるのだと考えている。