建前

よく巷で言われる「国民性」というのは、実に不思議なものだと思う。例えば日本人がアメリカに対して抱くイメージやアメリカ人の国民性というものは、多くの場合本来のそれと異なる。アメリカに外国人として滞在していると、イメージと現実のギャップに驚かされる事が多々あり、時に違う国民に対して自分たちとの共通性を見いだしたりする事が出来る。そういう瞬間はいつもどこか可笑しい。
546の撮影が始まる前、ロケーションスカウトをしていた時の事である。その日は、新学期始まってすぐの休日にも関わらず、朝早くから集まり一日中車を走らせロサンゼルス中を回らなくては行けなかった。ロケーションのリストをとりあえず制覇し、ヘトヘトになって元の場所に戻ってきたときに、一件のメールが入る。それは、プロデューサーがその日に予定していた、撮影前のパーティーの時間に関してのメールだったのだ。当のプロデューサーはスカウトに参加していなかったため、全員がヘトヘトである事は知らない。
この後のクルーの行動は、僕にとって少し可笑しいものであった。大の大人四人のクルー達は、そこから30分間もの間、行くべきか行かないべきかでダラダラと議論をし続けたのである。その理由は「彼女はずっとこのパーティを企画してくれてたから、申し訳ない」というものであった。この30分間の議論は僕にとっては非常に不思議な光景に映ったのである。
というのも、僕は産まれてこのかた「アメリカ人はつねに本音で話す国民」と教わってきたからである。この対極には「人に気を使ってばかりで自分に正直でない日本人」という自国民に対するイメージも存在する。ところがこのクルーの行動はどうだろう。僕が日本で18年間見てきた、人に気を使う姿まさにそのものであったのだ。”日本人の想像するアメリカ人”であれば僕は「こちらは一日中動き回って疲れてパーティをする体力なんて無いんだ。ごめん」の一言で終わるはずなのに。
このギャップを見ると、「国民性」というものの嘘くささがよくわかる。そういうのは大概メディアによって作り上げられたものであるのだろう。確信犯では無いにせよ、こういうでっち上げの国民性を植え付けられるのは、いささか迷惑だとも思うので、出来るだけ止めてほしい。