面白い瞬間、というのは色々あるだろうが、個人的に印象に残る面白い瞬間というのは、たいがい人間が無様な瞬間である。あまり自分の人間観をばらしたくないので言いたくはないが、まあそういう事だと思う。
人間の無様さというのはつまりその人の狡猾さや利己的な面が浮き上がる瞬間であると言い換える事が出来ると思う。だから映画の観客は嘘が大好きだ。噓というのは、物語としての緊張感を高める要素としてよく物語に取り入れられる。しかし僕は、噓が映画の中で気に入られる理由はもう一つあると考える。それはつまり、噓にはどこか人間の汚さがあり、観客は無意識に可笑しさを感じているからだと思うのだ。
噓はともかく、無様、利己、狡猾に話を戻す。具体例としては、例えば車の運転がうまい人が、道の知識を自慢しようとしてショートカットしようとしたら、他の多くの人が利用していて結局遅れてしまうとかそういう経験がある人は少なくないはず。この話においては、理性や知識が結局損をもたらす、という愚の基本を踏んでいる。
ただ、この愚かさというのは、程度が行き過ぎるとただの嫌悪に変わる。そのラインは人それぞれだろう。次の例は、僕が知人とランチを食べる為にレストランに行った時の話。その時はたまたま僕らがあまりいかない少し高めのレストランに入ったのだ。その日は天気がよかったので、テラスに座り、おのおの好きな物をオーダーした。一番興奮していた友人は、少し奮発してステーキをオーダーした。そしてその美味しそうなステーキを口に入るサイズに切り刻みまさに口にほおばろうとしたときに、突然ホームレスが話しかけてきた。「何か恵んでくれないか」という彼に対して、目の前に料理があるにも関わらず「すみません。今はちょっと。」の一点張り。結局ホームレスは去ってしまったのである。
この話をどう捉えるかは簡単ではない。中には非道徳的と怒る人もいるだろう。しかし彼にしてみれば、普段オーダーしないステーキなのだ。確かにこれが子供用のおとぎ話ならステーキを恵むに違いないが、ウエストハリウッドに居を構える彼は結局断ったのだ。ここに、否定しようの無い人間の汚れがあると僕は思う。それは、狡猾さであり、心の底から笑える面白さはない。しかし、とても人間っぽいという点で、無下に出来ない瞬間であることには違いない。